第2章 決断の積み重ねと職員の創意工夫 ~行財政改革①~
■変革と継続
行政において最も重要なのは職員の意識改革です。市長一人が孤軍奮闘しても、組織・職員が呼応してくれなければ何も実現しません。
私が市長に就任して驚いたのは市長のスケジュールが真っ白だということです。市政の重要な意思決定は「助役会議」という2人の助役をトップとする政策会議で協議・決定され、市長は会議終了後に局長から会議の結果を聞き、「諾」か「否」かを言う、これが千葉市の意思決定の実態でした。
また、当日飛び込みの市長レク(レクチャー、施策説明のこと)は許されず、市長室に入ることができるのは課長以上と信じられないありさま。また、レクをする局長や部長は私の前で読み原稿を読み上げるだけの人も少なくなく、突っ込んで質問をしても答えるのは全て課長と典型的な役所体質で、「これは変革のし甲斐のある組織だな」と感じました。
市長と職員の距離があまりにも開きすぎ、市政が何を目指すのか、市長の方針や価値観はどこにあるのかが伝わらず、セクショナリズム、内向きの思考、庁内政治がはびこる要因が至るところに散見されました。
私は就任してすぐに、市長をトップとする政策会議によって市政の重要な意思決定を行うこと、当日であろうと市長に伺いを立てるべき案件があればいつでも市長室に来ること、課長未満の役職でも責任を持って説明できる職員であれば誰でも市長室に入ってよいこと、局長や部長は庁内会議においては読み原稿に頼らず自分自身で政策を説明すること、等々、仕事本位の組織風土を作るために一つ一つ改善するところから私の仕事は始まりました。
また、区役所はもちろん、土木事務所や水道事業事務所、市立病院など、様々な現場に足を運び、職員と意見交換したり、交流を重ねてきました。市施設への訪問は100回以上になります。「歴代市長が来るのは初めて」と多くの職員から言われました。
昼も夜の時間も無駄にはできません。若手職員とは日々ランチミーティングという形で、昼食をとりながら彼らの業務内容、課題、市長に聞きたいこと等についてざっくばらんに意見交換を重ねたほか、局長・部長・課長とはそれぞれお酒も酌み交わしながら、彼らの仕事に対する思いを聞き、私自身の課題認識や価値観を伝えました。
研修においても部長研修、課長研修、課長補佐研修、主査研修、新規採用職員(職員、消防職員、教職員)でも講義をして、千葉市の方向性や職員に意識してほしいことを伝え、研修後の懇親会ではそれぞれの思いやプライベートの話も聞かせてもらっています。
職員との交流や信頼関係の構築は非常に重要です。一方で、職員と仲良くなること、好かれることが目的となってはいけません。
市長は職員とともに仕事をしますが、市役所組織の中でただ一人、有権者に選ばれ、市民の感覚で市役所組織を運営する責任を持っている人間です。市役所組織、職員が市民の期待や感覚とずれている部分があれば、嫌われてでも指摘し、改善させる責務があります。
私は常にそのバランスを意識してきました。そのために必要なのは良き補佐役です。
常に変えるべき点を指摘し、将来予測の下で今やらなければならない課題を与えてくるトップが、職員にとって初めて市役所組織以外から来た民間出身の市長で、しかも自分の息子のような年齢です。面白くないと思う職員がいて当然ですし、私がどんなに努力しても埋められない溝もあるでしょう。
私は市長に就任するにあたり、全国の事例を自分なりに調べました。若くして市長になった者、既存の体制を打ち破って当選した者、財政再建を進めた者。その多くが長く続かず、道半ばにして去っていました。なぜ失敗したのか、その失敗の理由などを紐解く中で、補佐役つまり副市長の存在が重要だということが分かりました。
市長と職員をつなぎ、市長の考えを職員に伝え、時には職員の思いを市長に直言する、変革期には特に副市長の存在は重要です。私はこの点において本当に恵まれていました。
千葉市の副市長は2人体制で、一人は市長選に立候補して辞めており、残るもう一人は藤代謙二さんでした。藤代さんは市職員出身の副市長で、職員からの信頼も厚く、人間力に富み、私と職員をつなぐ存在として非常に貴重な存在でした。
藤代さん本人は辞めるつもりでした。というより「辞めざるを得ない」というところでしょう。前市長に仕え、同僚の元副市長を応援していたのです。仮に慰留に応じれば、そちらの勢力からの批判は避けられません。
藤代さんまで辞めてしまうと、副市長がいなくなってしまいます。新たに副市長を選任しようとしても、副市長人事は議会の承認が必要で、私が選んだ人物を議会が否決するリスクがありました。
当時の市議会の過半数は、私の相手候補の元副市長を応援していたので、承認されない可能性があったのです。仮に副市長が決まらなければ、職員に不安が走り、求心力がなくなりかねません。
私にとって最初の関門は藤代さんに留任してもらうことでした。
「あなたが必要なのでぜひ残って下さい。あなたにとって楽な道ではないと分かっていますが、市役所や職員、市政のために残って下さい」と重ねて説得しました。
しばらくは保留という形でしたが、ある時に「市長、私、残ることにしました」と藤代さんから言われた時は、本当に嬉しかったですね。
就任当時は民主党政権誕生前夜といった時期で、民主党は政権を取ったら幹部を総入れ替えというような政策を打ち出していたこともあって、職員も不安に思っていました。
「主流派、反主流派に分けるような強権的な人事はしない」
藤代さんが残ってくれたことは、職員にとって大きなメッセージになったと思います。選挙が終わり新たな体制が決まった以上、これからはその体制の下で全職員が、全ての関係者が千葉市の課題克服に取り組むことが一番大事だと、就任早々から全職員に訴えることができるようになったのです。
職員の回想 ~就任時の総務部長(志村 隆氏)~
私は2009年の熊谷市長初当選以来8年間仕えさせていただきました。この8年間は自分の千葉市職員人生の中で最も濃い8年間だったと思います。
それまでの千葉市の意思決定は、どちらかというとボトムアップ型で、堅実だが先進性がない、またスピード感がないものでした。それが熊谷市政になってトップダウン型になり、先進的、スピードが求められるものに変わったのが一番大きかったのではないでしょうか。
根本的な仕組みが大きく変わったため、初期の頃は幹部職員の中に不平不満が多くあり、人的マネジメントを担当する総務部が市長を支えなければ組織がガタガタになってしまうという危機感がありました。ありがたいことに藤代前副市長に残っていただき、多方面で橋渡し役となっていただいたことで、大きな混乱がなく対応できたものと考えます。
■ 行財政改革への船出
私が取り組んできた施策分野の一つに行財政改革があります。就任時に政令市ワースト1位で、早期健全化団体に国から指定される危険性すらあった千葉市の財政は、この 11年間で見違えるほど健全化されました。
行財政改革には後ほど述べるような創意工夫も重要ですが、基本は地道な作業の積み重ねであり、時には市民等から喜ばれない事業の見直しも政治生命を懸けて断行しなければなりません。
市民にとっては住んでいる街の財政状況などほとんど気にならない一方で、金銭的補助など目に見える行政サービスが削減されれば当然不満に思います。財政健全化を進めることは政治的には得なことはなく、だからこそ日本はここまで借金が膨れ上がりました。
でも、私はここにこそ自身の存在意義を感じています。
私自身が安定した会社員を辞めて、政治の世界に入った理由の一つが、「正しいけれど、政治家が反発を恐れて実行できないことを自分が実行することで社会の閉塞感を打破する」ことにありました。
長く政治の世界にいる必要はありません。仮に最後は不人気で去ることになったとしても、将来の人たちのために意味のあることが成し遂げられたのであれば、十分に誇りに思える人生のはずだ、との思いで、この世界にいます。
なお、私は財政健全化至上主義者ではありません。緊縮財政で財政が良くなっても、街に元気が無くなれば意味がありません。必要な投資は積極的に行い、税収を拡大すべきとの立場です。その分野については第3章で詳しく説明します。
■ 正しい現状認識を持つ
では、具体的にどのような決断の積み重ねと職員の創意工夫で健全化することができたのか、ご紹介します。
私が市長に就任した際、行財政改革として速やかに行う必要があったのは、
・モノレール延伸等の大型公共事業の見直し
・全ての予算の総点検と聖域なき見直し
・それを実行する職員の意識改革
でした。
ここで当時(2010年度)の千葉市の財政状況を振り返ってみます。
1年間の収入に対する負債の割合を示す将来負担比率は285・3%と政令市ダントツのワースト1位(2位は広島市の251・3%)。1年間の支出に占める借金返済の割合を示す実質公債費比率は 21・4%と、こちらも政令市ワースト1位。
つまり、身の丈を超えた借金を抱え、かつ過去の膨大な借金返済のピークが始まり、毎年の予算繰りすら四苦八苦している状況でした。
早く財政健全化路線にシフトチェンジすればよかったのですが、千葉市はあろうことか、貯金にあたる基金を全て使い果たし、それでもお金が足りないので、発行した市債を償還するために積み立てておかなければならない市債管理基金にまで手を付けてしまいました。
それでもお金が足りないということで、今度は外郭団体(都市整備公社、土地開発公社など)に借金をさせて、その場をしのいでいました。隠れ借金ですね。
禁じ手に近い手法を使い、その場をしのいできたツケは重く、各種財政指標は信じられないほど悪化しました。
しかし、不思議なことに千葉市の財政状況が悪いということはあまり市民・県民には知られていませんでした。むしろ、当時は県の方が財政状況が厳しいと認識している人たちの方が多かったかもしれません。
堂本暁子知事(2001~2009年)が財政再建に取り組み、様々な外郭団体を含め、予算のカットを断行していました。当時、それらがよく報道されていましたので、市民だけでなく経済界等も含めて、財政が厳しいといえば県、というイメージでした。
今、この本を読んでいる人は信じられないかもしれませんが、世の中の認識は常に実態から数年から 10年は遅れます。既に千葉市は財政状況がかなり健全化しつつありますが、未だに千葉市は財政が厳しいと思っている人が多いでしょう。千葉市が厳しい時に千葉県の方が財政事情が悪いと思い、千葉市が良くなっていても千葉市が悪いと思ってしまう。仮に県と財政事情が逆転しても、しばらくは同じかもしれません。
いずれにせよ、これから行う徹底した行財政改革に理解を得るためには、市民や関係者に千葉市財政に対する正しい現状認識を持っていただくことが不可欠でした。
■〝脱(け出したい)財政危機宣言〟
千葉市政の財政状況を懸念していた私は、市議時代に何度も「財政危機宣言を出すべきではないのか」と質問していましたが、財政部門は「宣言を出すほど財政状況は悪くない」という答弁を繰り返すのみでした。
市債残高は膨大、貯金は底をつき、各種財政指標は政令市ワースト1位、このままでは国から財政健全化団体に指定されてもおかしくない状況だったにもかかわらずです。
ところが、市長となり財政部門に「やはり財政危機宣言のようなものを出すべきではないか」と尋ねると「出しましょう」と180度意見が変わったのです。これにはさすがに驚きました。
「なぜ市議時代に質問したとき必要ないと答えたのか」
「私たちは市長に仕える身です。市長が必要ないと言っている以上、必要だと答弁できません」
この一言に公務員というものの特徴がよく出ています。職員にとって選挙で選ばれた市長の方針に従うことは民主主義として当然です。市長が自分の財政運営が問題であったと言えるわけがありませんし、市長がそうであれば補佐すべき公務員が危機宣言を出せるわけがありません。
前市政まで与党側だった議会の各会派は当然反発しました。それまで予算に賛成してきた議員にしてみれば、「チェックをしていた議会は何をしていたんだ」という批判にさらされる可能性があるからです。
財政部門や私のところには様々な議員から、宣言の発出を止めようと働きかけがありました。
議会の責任を追及しても建設的ではなく、過去よりもこれからに向けた宣言とするため、「これから財政危機を脱出するぞ」という意思を込めて「脱・財政危機宣言」と若干ポジティブにして宣言自体は予定通り発出させてもらいました。
■ 間に合ったモノレール延伸の凍結
公共事業の中で投資効果に疑問があるものを止めることが必要でした。
前述した通り、私は大型公共事業に反対ではありません。実際に、千葉駅西口再開発は当時に戻れば違う判断もありえたものの、既に土地はほぼ取得済み、かつ開発しなくとも地権者に毎年多額の補償料を支払う必要があったため、事業を続行することにしました。
問題は千葉都市モノレールの延伸事業と蘇我スポーツ公園整備事業です。
モノレール延伸事業は、市議になる前から注目していた事業です。私自身はモノレール沿線に住んでいたので、かなりの頻度で利用しているユーザーではありましたが、延伸事業の根拠となる試算には疑問を抱いていました。
当時の試算は建設費が176億円、延伸によって増える乗客数が1日8770人、公共事業の妥当性を図る費用便益という指標は3・ 57と、延伸することが妥当である、となっていました。
しかし、県庁前路線を整備した際、競合するバスが100円運賃という対抗値下げを行い、この路線には現状ほとんど乗る人がいないことを考えると、延伸した場合に千葉大学附属病院や市立青葉病院に向かうバス路線の乗客全てがモノレールにシフトするという試算には懐疑的にならざるを得なかったのです。
また、蘇我スポーツ公園についても、 20面のテニスコートや陸上競技場といった、財政が危機的な中で整備する優先度が高いものではありませんでした。
そもそも、千葉市には天台に県の総合スポーツセンター陸上競技場があり、青葉の森にも陸上競技場があります。なぜ、さらに陸上競技場を作る必要があるのか尋ねたところ、「それらは県の施設なので、市の陸上競技場が必要」との話でした。
確かに県の総合スポーツセンター陸上競技場は県レベルの大会が多いので市が自由に使えるわけではありませんが、青葉の森の陸上競技場は市の大会を多く開催しており、県から引き取ったらどうだと言われるくらいの施設です。県の施設だ、市の施設だ、といった話は市民には関係がありません。
こうした施設は整備するイニシャルコストだけではなく、毎年維持するためのランニングコストも必要となります。少なくとも市民の税金を将来にわたり支出するに足るだけの検討がなされている事業ではありませんでした。
就任後、さっそく両事業の見直しを指示したわけですが、これらの見直しはスムーズ、かつ速やかに行うことができました。
実は、これら事業の見直しを私が公約として打ち出し、選挙期間中に私が優勢であるとの情勢分析を報道機関が出した時点で、当時の都市局長の徳永幸久さんは、ひそかに両事業を見直す場合の選択肢について研究に着手していました。 60年続いた助役出身者が市長になる慣例が破れ、大幅な市政の転換が現実味を帯びてきて庁内が混乱している中、粛々と来るべき時に備えてくれていたわけです。
冷静な徳永さんのおかげで、就任後すぐに提示された選択肢を元に吟味し、モノレール延伸事業は凍結、蘇我スポーツ公園整備については陸上競技場等の施設整備は止めて多目的に使えるグラウンドを中心とする見直しを行い、総事業費を圧縮することとなりました。
■ 議会の集中砲火
モノレール延伸凍結を決めた直後の議会では、前市政まで与党だった会派の議員から凄まじい集中砲火を浴びました。「議会が承認した予算を執行停止にするとは」「選挙で市民は白紙委任状を渡したわけではない」「市長は投資というものが分かっていない」等々。市議時代に仲の良かった議員からも厳しい批判を受け、精神的にはかなりつらかったのですが、きっといつか分かってもらえると思い、ひたすら耐えました。
しかし、千葉市の厳しい財政状況が次第に全ての議員に共有されていくに従い、徐々に批判のトーンは下がっていきました。また、前市政が示していたモノレール社の経営見通しが甘く、車両更新などで近い将来、資金ショートする可能性が高いことも判明し、モノレール社も多大な投資負担をする延伸が現実的には厳しいことが理解されてきました。
■ 10年間の道のりに決着
その後、 10年が経過し、脱・財政危機宣言も解除されるなど急速に財政は健全化されました。そこで、私はモノレール延伸事業について、延伸するべきか改めて検討することを指示しました。
実はこの 10年間、財政健全化に向けた苦しい道のりをともに歩んでくれた議会は、投資判断が極めて冷静、的確となっており、モノレール延伸事業について検討再開を求める声は全く上がっていませんでした。議会も、庁内も「あれは終わった話」という感が強かったのです。このまま凍結のままにしてしまった方が私にとっても、市政にとっても短期的には良かったと思います。
しかし、結局モノレール延伸事業はどの程度の効果があったのか、うやむやにするべきではないと私は考えました。政治的に安定しており、職員も議会も投資判断が的確な今ならば、延伸ありき、延伸反対ありきといった先入観や政局抜きに、大型公共事業の是非を判断・検証できるのではないか。後世、モノレール延伸を訴え、当選した市長の下で、冷静な検証なく延伸され、それが失敗に終わるリスク、逆に延伸すべきだったにも関わらず私が凍結したために、永遠に延伸できないリスクもありました。
無風・中立の状態でT寧に検証した結果、モノレール延伸事業は当時の見通しよりもはるかに少ない乗降客数しか見込めず、費用便益は1を切り、事業として妥当ではないということが判明しました。当時の試算がいかに楽観的で、延伸ありきの無理な前提条件で算定していたかが白日の下にさらされたのです。
実はこの新たな試算は、当時モノレール社が内々で試算していた数字とあまり変わりありませんでした。当時、市が楽観的な試算を示す裏側で、モノレール社の独自試算ではもっと低い数字が出ていたのですが、そのような不都合な試算は当時表に出なかったのです。
当時のトップが延伸ありきで突き進み、都合の良い試算が示され、誰も止められない、これは千葉市でなくともどこにでもある話です。
私が2009年に就任していなければ、その後、設計・着工と進み、次の2013年の市長選挙ではもはや止められない状態になっていましたので、ぎりぎり踏みとどまることができたわけです。
このモノレール延伸を巡る 10年間は、止められない公共事業を正しく、冷静に見直したモデル事例として、全国の参考になるでしょう。
千葉市は極めて安易な発想で作られた公共施設が多すぎます。100万人に満たない自治体が、自前のレジャープール、動物園(以前は遊園地も併設)、アイススケート場、野球スタジアム、サッカースタジアムなどフルセットで持っています。こんな都市はありません。
「きぼーる」などは400億円以上を投じたにも関わらず、中に何の施設を入れるかビジョンも無いまま、土地取得・開発ありきで作られました。
道路整備等の都市インフラ整備は投資効果もありますし、投資案件の中には当時は良い施策と思っていたものが後に振り返ると過ちだったこともありますが、千葉市に関しては当時の判断そのものが甘い、そもそも投資判断がなされていないケースが散見されます。
市長就任後、資産経営部を新設し、野放図に整備されてきた公共施設の最適化を時間をかけて職員とともに取り組み、一定の成果を挙げることができました。
千葉市は 10年先の各公共施設の老朽化状況を勘案しながら、集約化や効率的な配置を資産経営部を中心に構想し、実行に移しています。今の職員、議会であれば、これからも賢い資産経営をしてくれると確信しています。